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映画『コンタクト』 主観的事実の体験者としての人間

執筆者の写真: 北林陽児北林陽児

昨日、『コンタクト』という映画を観ました。


1997年の古い映画なのですが、最近そういうのを見返しています。


宇宙人から送られてきた宇宙船の設計図に従って、宇宙へ旅立ち宇宙人とのコンタクトを目指すという話です。


神はいるのか?人間とは何か?科学は人を幸せにしているか?などの哲学的な問いかけがなされてゆきます。


宇宙人に対する興味よりも、「改めて自分たちは何者なのか?」という内省が語られるわけです。


そして、宇宙飛行士の選定にあたって、無神論者である主人公は人類代表としてふさわしくないとされて落選します。


少なくとも1997年当時の米国においては、神への信仰心は人類のスタンダードとして扱われていて、むしろ科学は批判や攻撃にされされています。


さて、まあ、あれやこれやあって、結局主人公が宇宙船に乗り込んで、出発から18時間の間に琴座ベガまで往復して、宇宙人ともコンタクトを果たします。


ところが、地球上での観察者が宇宙船を見失ったのはたった1秒だけで、その1秒間でベガまで往復したとは信じてもらえません。


相対性理論によって高速移動をすると時間の流れが遅くなるので、宇宙船内の18時間は地球での1秒に相当するのだと主人公は主張しますが、物的な証拠は残っていませんでした。


これをもって政府の関連機関、主人公の18時間の体験は、主人公の妄想であると結論付けます。


これは、本当に興味深いことだと思っています。


何故ならば、主人公の18時間の体験の映像シーンというのは、瞑想などを通じて起きる神秘体験と非常に近く表現されているからです。


はっきり言ってしまえば、その18時間の体験シーンは、私にとっては「これ私も体験したことのあるやつ・・・」という感じなのです。


映画の中で、この宇宙船は、50兆円規模の超巨大国際プロジェクトで、当然物理的コンタクトできると考えているわけですが、実のところ精神世界でのコンタクトであったということなわけです。


政府や社会は、精神世界でのコンタクトを「妄想」と捉えて、客観的に高く評価せず終わるわけですが、主観的事実を評価できないというのが、現在の人類の到達点というか、限界性だなと思います。


しかし、政府の公聴会において主人公は「妄想であった可能性は認める。しかし妄想ではない」と主張し、その理由は「そう思えないから」と答えます。


つまり、18時間の体験を通して、客観的事実しか信じなかった科学的な主人公には、主観的事実を固く信じる非科学的な変容が生じているわけですね。


物語の中盤で、興味深い会話がありました。


神を信じる神学者に「神が存在する証拠はあるの?」と主人公が問うのですが、それに対して神学者は「あなたが父親を愛している証拠はありますか?」と問い返すのです。


主人公にとって最も大切なものも結局は主観的事実であって、そこに真実があることを指摘されているわけです。


この映画の哲学的テーマの答えは、ここですでに出ているわけですね。


つまり、客観的事実だけに拘る限界性と、真理は主観的事実のなかにあるという主張ですね。


少なくとも、人間とは何か?という問いに対する答えの中には、「主観的事実の体験者」であるという視点は不可欠だと語っているように思われました。


主観的事実がないならば人間の存在意義そのものがないわけで、その意味で「ココロこそ王様」なわけです。


さて、ところで、どうして私がこんなに熱く語るかと言えば、私も18時間の体験シーンと似たような神秘体験を何度か重ねていて、その結果、精神世界に対する興味の核になっているからです。


もう20年以上も前に見た映画なのですが、その後の私の人生を暗示していたかのような内容で、そういう映画をちゃんと見ていてかつ、ガッツリ心に残っていたことに一種の運命性を感じます。


神とか、高次元の存在とか、ハイアーセルフとか、超意識とか、まあ色んな言葉で表現されますが、そんな感じのものと出会うような体験、ざっくり言うところの神秘体験に興味がある方にはオススメ映画ですね。


映画の中では50兆円かけているわけですが、意外と誰でもできる体験ですよ笑

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