愛を受け取る難しさについて
- 北林陽児

- 6 日前
- 読了時間: 3分
前回は、「喜びを与える」という書き込みが凄く効いているという話をしました。
それで、「愛を与える」と書き込んだ場合、どうなるのかという話を始めようか・・・と言うところで終わっていたと思います。
これには、一体どんなことが起きるか、かなり期待をしていたのですが、結果的にはあまりはかばかしい成果がでなくて・・・。
これはどうしたことかなと思って、色々と探っていっていくと、抵抗感が凄く強くて、そこを消し切ることがなかなかできないのです。
というか、「愛を与える」に対する抵抗感はさほどではないのですが、それと対を成す「愛を受け取る」に対する抵抗感が凄い複雑にあって・・・。
自分自身が受け取ることを拒絶すると同時に、それが他者に投影されて、受け取り拒否されているということに気づきました。
以前エーリッヒフロムの『愛するということ』についての記事で、「与えることと受け取ることは表裏一体で、受け取ることによって、与える喜びを与えることができる。つまり、受け取ることで与えることができる」というような話が刺さったという話をしていました。
つまり、「愛を与える」ことがちゃんとできるためには、「愛を受け取ること」もできなければ成立しないということなのです。
私の場合には、「愛を受け取ること」にかなり強い抵抗感があったことに気づきました。
これは鏡の法則が効きますから、私自身が受け取れないだけでなく、誰かに受け取ってもらうこともできないことを意味しています。
ここに気づいて、「与えること」と「受け取ること」を同時に書き込んでいって、同時に抵抗感を消していくという作業を1週間?10日?と長い時間かけて行っています。
すると少しづつ抵抗感が薄れていって・・・。
周囲にも変化が見られる感じがします。
どうも、周囲の人々は私に優しさを感じるようになっているようで、「陽児さんは優しいね」とか「陽児さんの料理は優しい味がする」とか言われるようになりました。
まずは、受け取ってもらうことはできるようになったのかな、と思っています。
一方で、「喜びを与える」と言う書き込みのように劇的な変化があったかというと、そうでもなくて、日常生活が穏やかになったというか、心のザワザワが減ったような気がします。
もしかすると「愛を与える」以上に「愛を受け取る」というテーマについては、抵抗感を持っている人が意外と多いのかもなと思いました。
フロムによると、愛するということは感情ではなく意志に基づいて行う行動であり動詞だということでした。そして、与えることと受け取ることは同じであると。
と言うことは、愛を受け取ることもまた、意志に基づいた行動だということであり、それは案外、私だけでなく多くの人にとって難しいことなのかもしれないなと思ったりしました。
このことはしかし、簡単に言えば要するに、好きな人にフラれることも、フルことも、よくあるよねってことなんですよね。
当然ながら、その時にはショックを受けるわけで、それが今回消すのに苦労した抵抗感の正体だろうな・・・と思っています。
フラれたり拒絶されたときの悲しみとか辛さが心の中に溜まっていたとして、それを消すことができれば、日常生活が穏やかになったり、心のザワザワがなくなったりするのも自然なことか・・・と思いました。
最後にちょっと記録的に書き加えると、「喜びを与える」にはアッパー系の効果、「愛を与える」にはダウナー系の効果があった感じがします。


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