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私の書き込みが、効果的な理由

  • 執筆者の写真: 北林陽児
    北林陽児
  • 10月31日
  • 読了時間: 4分

前回の記事では、「私は多くの人に喜びを与える」という書き込みによって、素晴らしい成果が出たという話を書きました。


周囲の人々や、自分自身の行動が大きく変化したという話でしたね。


これについて、どうしてそんなに大きな効果を出せるのかと言う話を補足したいと思いました。


世の中には、潜在意識への書き込み方法というのは色々紹介されています。


良くあるのは、アファメーションといって文章を何度も呟くという方法とか、ビジュアルイメージを思い浮かべる方法なんかがありますよね。


私自身は他にも色んな方法を使って試した結果、それらは効果薄いという結論に至っています。


どうして効果が薄いかと言うと、それらの方法を行えば行うほどに、陰陽の分離を引き起こすからです。


陰陽の分離というのは、「○○したい」と思えば思うほど「○○しない」とか「○○できない」という真逆の方向の気持ちが生まれてしまうことを意味しています。


例えば、鶴の恩返しにおいては「見ないでください」と言われたことで、「見たい」という気持ちが生まれてしまいます。


あるいは、「食べちゃダメ」と思えば思うほど「食べたい」という気持ちは強くなります。


あるいは、「お金が欲しい」と思えば思うほど「お金がない」という現実がクローズアップされてきます。


それと同じで、「喜びを与える」と思えば思うほど、「私の喜びは?」とか「私ばっかり働きたくない」とか「私も受け取りたい」というような真逆の気持ちが強まります。


この2つは拮抗関係にあるので、片方が強くなると、もう片方も同じように強くなってゆきます。


この拮抗関係はアクセルとブレーキのようなもので、与えるというアクセルと、そんなの嫌というブレーキを同時に踏むこととなります。


アクセルとブレーキを同時に踏んだ場合、心という車体には大きな負担がかかって、破綻をもたらすこととなります。


と、いうことで、アファメーションやイメージングで単純に書き込みをしてもうまく行かないというか、むしろ心の中に歪みを生み出すこととなるわけです。





では、私は一体どのような書き込み方法を行うことによって、効果を出しているかというと、書き込みと同時に、浄化つまり消し込みを行っているからです。


つまり、「喜びを与える」という書き込みの際に生じる、陰陽の分離の消し込み、あるいは浄化あるいは統合を同時に行ってしまうわけです。


アクセルとなる「喜びを与える」と書き込むと同時に、「私も受け取りたい」「私ばっかり働きたくない」「疲れちゃう」とかそういう感じの気持ちを、消してしまうわけです。


これを行うとどうなるかというと、「喜びを与える」という書き込みが願い、希望、欲求とか決意とかいうことではなくて、「当たり前のこと」として心の中に書き込まれることとなります。


「当たり前のこと」とはどういうことかと言うと、例えば、「床に落ちているペンを拾う」というようなことです。


ペンが床に落ちていたとして、それを拾う時に「拾いたい」と願ったり、希望したり、決意したりするでしょうか?


そのような心的な処理を行うまでもなく、体が勝手に動いて拾うものではないでしょうか?


特殊な事情がない限りは、ただ単に当たり前のこと、当たり前にできることとして「やる」というだけのことであって、そこにはもはや陰陽の分離など生じる余地はないのです。


つまり、私が行っている書き込みというのは、「私は多くの人に喜びを与える」という内容を、「ペンを拾う」のと同じレベルで当たり前のこととして受け入れた状態を作ることを意味しているわけです。


そこには、アクセルもブレーキもありませんから、葛藤もなく、ただ単に実行するだけのこととなります。


前回は、同僚に「考えるより先に体が勝手に動いて」アイスをあげてしまったという話を書きました。


自分にとって「喜びを与えること」があまりにも当たり前だから、まるでペンを拾うかのように体が勝手に動いて、アイスをあげてしまうわけです。


まあ、そんなことで自分自身を変化させる、自己変革を起こすというような場合においては、この陰陽を統合することが決定的に重要だと私は考えています。


何を書いているのか、わかってもらえれば・・・いいなと思います。

 
 
 

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