小田和正の『さよなら』の歌詞
昨日は、反転眼鏡の実験から、心の在り方が世界の見え方に影響しているという話をしました。
今日は、そこから深堀して、心の在り方の影響はさらに高度だということを説明しましょう。
皆さんは、オフコースあるいは小田和正の『さよなら』という歌をご存じでしょうか?
この歌は、衝撃的かつ不思議な出だしが心に突き刺さります。
~ もう終わりだね 君が小さく見える ~ youtubeはコチラ
私はこの歌詞について、君が終わりを恐れ悲しんで、体が縮こまっているのかな・・・的な意味合いと捉えていました。
しかし、心理学の教科書を学んでいたときに、本当の意味を知りました。
実は、私たちの物の見え方は、その物に対して自分が持っている意味や関係性が加味されて、修正されています。
どういうことかと言うと、自分にとって重要なものは大きく見え、どうでもよいものは小さく見えるということです。
つまり、小田和正の歌詞の意味は、恋人関係が終わりに近づいて「君」の重要性が大きく下がってしまった結果、小さく見えるという視覚現象を示しています。
本人の心情としては、「小さい君」を見ることによって、頭で考えていた以上に、心の中では「終わっている」ということに気づき、自分自身も悲しんでいると、私には思われます。
私が経験した小さく見える現象
実は、これと似た現象を私も何度か経験しています。
一回は何年か前に、取引先の人と久々に会ったときに、その人がびっくりするほど小さくなっていて驚いたことがあります。
ちょうどその頃、自分の中でのその取引の重要性に変化があったことを覚えています。
あるいは、ある時、父親が急に小さく見えるようになったという現象もありました。
経済的に独立したり、社会的地位を手にしたことで、親が小さく見えるようになったというのは、多くの人が経験しているかもしれませんね。
親が小さく見えるという現象は、単に親が年取ったのではなく、自分の心の中での親との関係性に変化があったと考えた方が良いでしょう。
このように、社会的な重要性や関係性といったような複雑な心の在り方も、世界の見え方に影響を与えて、物理的世界を歪めて認識しているわけです。
物理的な重さから感じられる重要性
この現象は視覚に限ったことではなく、五感全てについて言えるでしょう。
例えば、石川啄木の短歌では、
「たはむれに母を背負いてその余りの軽き泣きて三歩歩まず」
と歌われていますね。
啄木と言えば放蕩息子で有名で、おそらくは母親のことなんか大切にしていなくて、その心の在り方が、母の体重を実態以上に軽く感じさせたと解釈されます。
従って、「泣きて三歩歩まず」は、そういう自分の心の在り方、母を大切にしていない自分、親不孝をしてきた自分自身に気づいて悲しくなったという意味合いにも思えるのです。
少し話は外れますが、とらやの羊羹が手土産として人気なのはなぜでしょうか?
理由のひとつは、「重いから」と言われています。
「重要」という言葉には「重」という漢字が含まれていますが、人間は物理的な重量感から、社会的・文化的な重要性を感じるようにできています。
つまり、物理的に重いお土産を受け取ることによって、「重要な物を頂いた」とか「自分は重視されている」とか「自分は尊重されている」と感じるわけです。
重要、重視、尊重、全てに「重」という漢字が含まれていますね。
このように考えていくと、啄木の「その余りに軽き」という意味合いが、身体的な問題を越えて、より重要な意味合い、心の在り方の問題にまで言及されているという説にも説得力が増すのではないでしょうか?
「客観的な世界」とは何か?
このように私たちは、自分の心の在り方によって修正された世界のことを、「客観的な世界」と思って見ているのです。
極論的な言い方をすると、「客観的な世界」なんて存在していなくて、私たちが見ているものは「自分の心そのもの」ということなのです。
そして、だからこそ私は心理療法に取組んでいると思っています。
心にアプローチすることで、その人の世界を変えること、苦しい世界から楽しい世界へと変化させることができるから、この仕事が重要だと思っています。
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