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だがしかし、不思議は残る。

執筆者の写真: 北林陽児北林陽児

ここのところ数回にわたって、移植手術に伴う記憶転移の話題を書いています。


今日は、話をまとめて、ぼちぼちこの話題にひと段落と思っています。


昨日述べたように、「被り」という現象は、特定の人物をイメージして共感することで意図的に起こすことが可能だと述べました。


ここでイメージとは何か?という話を少し説明しましょう。


イメージとは、物理的実体が目の前にない状況下で、ある事物を仮想的に「感じる」ということです。


しかし、ここで移植による記憶移転について生じる疑問は、もらった人はドナーと面識が全くないわけだから、ドナーを特定できないわけで、「特定の人物」としてイメージすることも共感することもできなのではないか?ということです。


実はこの問題を解決しているのが、移植された臓器なのだろうな、と私は推測しています。


移植された経験はないので、あくまで推測です。


つまり、臓器の1つ1つの個体はある特定の人物のものであったわけです。


名前には同性同名が存在していて特定力は強くありませんが、臓器は1つ1つの個体が特定人物と1対1で対応しているわけで、特定力はかなり強いIDとして臓器は機能します。


そして、ドナーの一部であった臓器を、自分の体に移植された人物は、その臓器を通じて特定の人物であるドナーのことをありありと感じることが可能になります。


つまり物理的実体の伴う形で、「私の中で動いているこの心臓の元の持ち主」という特定の人物をイメージすることが可能になります。


というか、自分に心臓を与えてくれた命の恩人のことを、イメージしない人がいるのだろうか?と思いませんか?


そして、「被り」が発生するもう一つの要件として、共感するという問題が残っています。


ドナーは話したこともない相手で、何を感じているのかは分からないのだから、共感のしようがないという問題があります。


しかし、これはいとも簡単に説明できてしまいます。


何故ならば、臓器提供者ともらう人の間には、極めて強い感情的な共通点があるからです。


それは、両者ともに「死に直面している」ということで、これ以上に強い共感関係があるでしょうか?


心臓をもらった人は、この瞬間にも自分の体の中で動くことで自分の生命を維持している心臓を感じることによって、特定の人物としてドナーのことをイメージすると同時に、「自分が死ぬ」という状況に直面しての感情を、非常に強く共感するわけですから、「被り」が発生するのもごく自然・・・言えるような気がするわけです。


さて、ところで、ここで新たな問題が発生したことにお気づきでしょうか?


それは「もらった人が、イメージし共感した時には、ドナーは既に亡くなっている」ということです。


ドナーから心臓を摘出して、運搬して、移植手術をして、目が覚めて、イメージして共感するまで、何時間かかるか知りませんが、その間ドナーが生きているとは考えにくいです。


と言うことは、移植手術に伴う記憶転移は、すでに亡くなった人物から「被り」が発生するという現象なのか?ということに今さら言及しているわけです笑


これはつまり、人の死後に記憶はどうなるのか?という議論なわけです。


だがしかし、ま~~、この一連のお話はここらで終結とするのが、良い気がしますね。


これ以上は深めていっても、裏付けのない話になってしまいますからね。


記憶転移という不思議現象について、私自身の「被り」に関する実体験に基づいて説明を試みるという野心的な試みはいかがでしたでしょうか?


書いてみた感想として今思っていることは、最初のほうで「被りの延長線上と考えれば記憶転移は別に不思議なことではない」と書いたのですが、「不思議」や「論理の飛躍」が最終的に残りましたね。


ま、それはそれでいいのではないでしょうか。


不思議が残っていた方が、この世界は面白いというものです。


私のブログにしては、なかなかに逸脱した記事を連投してきましたが、次回は通常運転に戻って教科書的なことでも書いてみる計画です。


お付き合いいただいてありがとうございました。


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