今日は、イメージと体感覚の声を聴くと、どうして心が癒されるかという話を書く予定なのですが、若干ズレつつ、でも結論的には同じことを書こうと思います。
まず、結論ですが、心の癒しは「分かってもらう」ことで起きるからです。
イメージと体感覚の声を聴くというのは、つまるところ、自分で自分の心を分かってあげることで、自分の心を癒すというセルフケアのプロセスなのです。
ということで、結論は述べたので早速脱線させてください。すいません。
と言うのも、昨日、『母と言う呪縛 娘と言う牢獄』という本を読みました。
娘が母を殺してバラバラに解体して捨てた話で、医学部を目指して9年間も浪人したという教育虐待の果ての悲劇の小説・・・かと思いきやノンフィクションです。
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最初から最後まで、衝撃の連続・・・という感じの内容なのですが、私が一番胸を打たれたのは、逮捕されてから一貫して容疑を否認していた娘が、一転して容疑を認めたところでした。
娘は逮捕後から一審まで「母から自由になるために殺したのに、懲役になったら意味がない」と考えて、母が自分で自殺して、自分はその遺体をバラバラにして隠しただけと主張します。
ところが、控訴した二審で、一転して自分が殺したことを認めて、全ての事実を自白します。
で、その転じた理由なのですが、「分かってもらえたから」なのです。
娘は小学生の頃から、母から教育虐待され続けて、裁判時には32歳になっているわけですが、その間あった全てが裁判で明らかになって、弁護士や裁判官や人々が全てを分かってくれたことに衝撃を受けつつ、心が満たされて、本当のことを語るわけです。
娘は、「誰にも分ってもらえない」と思っていたのですが、裁判長が判決文を1時間にわたって読み上げたときに、子供の頃からずっと現場に一緒に居たかのように精緻に状況が明らかにされてゆき、多くの人が関わって「わかってくれた」ことに感激するのです。
娘はそこに至るまでに、警察の厳しい取り調べにも耐えて否認を維持して一審判決まで至ったわけですが、「分かってくれた」ことで心が癒されて、全てを話すのですね。
裁判官や弁護士などがここまで、子細を明らかにして分かってくれたのに、自分が本当のことを話さないわけにはいかないと考えたのです。
懲役の年数とかそういう損得勘定ではなくて、「分かってもらう」ということが、心にとっていかに重要なことであるかということが示されているなと、私は思っています。
ちなみに、一審では懲役15年の判決でしたが、殺人を認めて真実を話した二審では10年の判決となります。
まあ、そういうことで、説明プロセスは大きく逸脱しましたが、「分かってもらう」ことが重要だよねという同じ結論にいたりました笑
しかし、イメージと体感覚の声を聴くと、なぜ、わかるのか?が明らかになっていない気がしますね。次回はそこですね。
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