前々回は投影、前回は「向き合う」ことに関する記事でしたね。
それらの話を前提として、もう少し具体的な事例を用いて、踏み込んでみようと思います。
ずいぶん昔、30年くらい昔のことだと思うのですが、「イグアナの娘」というテレビドラマが放送されていました。
主人公は菅野美穂、その母が川島なお美、父が草刈正雄、妹には榎本加奈子という感じの出演者でした。
このドラマには、少女漫画の原作があって、こちらで少し読めます。
話の内容は非常に斬新で、川島なお美と菅野美穂の母娘がいるのですが、母からは娘がイグアナに見えてしまい、どうしても愛することができないという物語です。
さらに悲劇的なことに、妹は母からみても普通のカワイイ女の子に見えて、溺愛してしまうのです。
これは、もう完全に、母と娘の間におこる投影をテーマとした物語ですね。
つまり、「イグアナ」とは「『醜さ』のような方向性の要素」の象徴で、母親は自分の心の中にある醜い自分の要素(以下、イグアナ性)を、娘に投影してしまって、娘がイグアナに見えてしまうということなのです。
母親は自分自身が持っている「イグアナ性」を非常に否定的に捉えていて、嫌なもの避けるべきもの罰するべきものと考えています。
しかしながら、その醜さが自分の要素だと気づいてしまうと、自己嫌悪に陥ったり、自罰的になる危険に直面するのが恐ろしいので、自分の心を守る必要があります。
ですから、自分自身の「イグアナ性」には気づかずないことにして無意識に抑圧して、その代わりに、他者にその要素を見出して、嫌い、避ける、罰するという気持ちの対象にしているわけです。
その対象が、長女だったということなわけで、長女を対象としてそういう気持ちが発散されたため、次女は普通に見える。むしろ比較対象がイグアナなので相対的に凄い美少女に思えて、溺愛するわけですね。
ここで、醜さ、イグアナ性、美少女などと言ったワードは、単なる容姿の美醜ではなくて、もっと広い意味での人間的な良いものと、悪いものを意味しています。
さて、私もメンタルサポートの仕事をしていると、母と娘の問題はしばしば相談を受けています。
この『イグアナの娘』は、投影によって起きる母と娘の問題の1つの典型的な形だと思います。
つまり、母親がなんらかの抑圧を抱えていて、それを娘に投影して嫌ったり、避けたり、罰したりしてしまうことが、母娘関係をこじれさせるということです。
『イグアナの娘』においては、長女には醜い要素を投影し、次女には美しい要素を投影しているという点で、さらに関係性がこじれてしまっています。
この問題を解決するには、母親が自分自身のイグアナ性と向き合って自己受容することが一番良いわけです。
それができれば、娘が普通の女の子に見えるようになって、娘も家族全体も救われますが、最も大きく救われるのは母親自身です。
しかしながら、多くの場合、現在進行形の間にはそのような解決はできなくて、長女がもっと大人になってから、カウンセラーに相談するというのが多いのではないかと思います。
『イグアナの娘』でも、母が亡くなって、娘がその死に顔を見たときに、自分とそっくりのイグアナだったということに気づいて、母を許すこととなります。
これは、母も子供の頃に同じような過程でイグアナになってしまって、イグアナとして生きる苦しみを同じように味わってきていたことに気づいたということだと思います。
あるいは、母親が死に顔によって遂に「イグアナなのは自分なのだよ」と認めてくれたと娘は感じて、許したということなのかなと思います。
なんだか、凄い物語ですよね。
当時私は中学生だったので、上記のような投影の心理とかは全然知りませんでしたが、強烈な印象を持っています。
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