ここ数回の記事では、移植手術による記憶転移という不思議現象を、共感による「被り」によって説明するという試みをしています。なかなか攻めた内容を書いていますね。
前回、記憶転移は、「被り」現象の延長線上にあると結論づけつつ、しかし論理の飛躍が残されているというところで終わっていましたね。
さて、では、その論理の飛躍はどこにあるのでしょうか?
賢い読者が一言で指摘してくれたのですが、移植手術では対話のような意識レベルの交流がない(身体レベルの交流はあるが)のだから、感情や記憶が伝わりようがないということでした。
逆に言えば、この論理の飛躍を乗り越えるためには、対話などの意識レベルでの交流がなくても、感情や記憶は伝達可能であるということを述べれば良いわけですが、そんなことが可能なのでしょうか?
「可能」がその答えです。
まず、私が実際に体験したことを紹介しましょう。
私には兄がいて、両親に対して強い反感を持っていて家族とやや疎遠気味です。以前は私も父と問題があったのですが、それは解決されて現在は問題のない良好な関係です。
ところが先日両親と食事をしていて、父が兄について「こんな態度(食事を退席する)をとった」という話をした時に、そういう態度をとっている兄の姿が目に浮かぶと同時に、「あ~、その気持ちわかるわ~」と思いました。
そして、そのように共感した瞬間に、私の中にも強い反感が突然湧いてきて、何故かブチキレて(兄と同じように)食事の席を退席するという出来事がありました。
その後さらに、「もうあんたたちには会いたくない」ということになって、断絶気味になったのですが、数か月してからようやく兄から「もらった」のだと気づきました。
そして、もらったものを処理して、元の自分に戻りました。
この例から言えることは、「被り」という現象は、本人と会ったり話したりせずとも、その人の気持ちに対して共感すれば発生するということです。
そして、大変興味深いことに、その数日後に兄から帰郷するという連絡が入って、ニコニコ笑顔で帰ってくるという出来事がありました。
「被り」という現象の興味深い点は、こちらが悪い物を受け取ると、元の持ち主はその悪い物から解放されるということです。
従って、久々に家族が集まった際には、兄がニコニコして、私がブチギレているという従来とは逆転した形になったわけでした笑
なかなか面白い話ですね・・・。
さらに、面白い話、というかブッ飛んじゃっても良いでしょうか?
この兄から「もらった」話は、偶然発生した不思議現象にすぎないのですが、実は私はこのようなことを意図的に起こすことができます。
つまり、ある特定の人物に会ったり話したりせずに、その人の持っている苦しみを受け取って、その人を苦しみから解放できるということです。
当然ながら、代わりに私はその苦しみをもらうわけですから、私は自分の体を使って処理するわけですが・・・。
どうやってそんなことをするかと言えば、その人物をイメージの中で思い浮かべて、イメージの中でその人物に会うのです。
そして、そのイメージの中のその人物の気持ちに共感すれば、「被る」という現象を意図的に起こすことができます。
そして、その人物に電話などで連絡を取ると、「あ~、なんか急に楽になった」ということになって、代わりに私は苦しい・・・ということになるわけです。
今なかなかに滅茶苦茶なことを書いているのですが、「人間の脳は、現実とイメージを見分けられない」と言われていて、特定の人物をイメージすれば、実際にその人に会ったのと同じことになります。
そのうえで、共感を起こせば「被り」を発生させることもできます。
もちろん、私はイメージ療法の専門家ですから、誰にでもできることではありませんが。
この話を友人などに話すと、「自分が危険だからやめろ」と言われるのですが、実はすでに結構な回数をやっていて、再現性を持って実行できるスキルになっています。
このことから言えることは、「意識レベルでの交流」は、会わずとも話さずとも、イメージの中だけで行うことができるということです。
いや~~、だいぶブッ飛びましたね。超絶非科学的ですね笑
しかし、それにしても、移植による記憶転移を「被り」で説明するという試みには、依然として論理の飛躍が残されている気がします。
もう1回くらい掘り下げてみましょうか。
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